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女性と健康「急増する帯状疱疹」
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ふるさと歴史散歩 平清盛ゆかりの地 【番外編】

謎多き、平宗盛 寄進の梵鐘 河浜先生が謎を解く〜廿日市市宮島町〜

弥山本堂に収蔵されている宗盛寄進の梵鐘
弥山本堂に収蔵されている宗盛寄進の梵鐘

弥山本堂の梵鐘

本コーナーの第18〜45話を担当していただいた河浜一也先生
本コーナーの第18〜45話を担当していただいた河浜一也先生
 本連載の第10話に掲載された国の重要文化財、平宗盛寄進の梵鐘(ぼんしょう)については、謎があることで知られています。その形状は確かに平安末期の特徴をよく現しており、そのころの製作であることは間違いなさそうです。
 平清盛の長男・重盛の亡き後、平家の棟梁となったのが、清盛の三男・宗盛です。宗盛は文武でいうと、文にたけ、武の方は弟の四男・知盛が担いました。
 

謎1 梵鐘の作成日

弥山本堂。江戸時代は求聞持堂(ぐもんじどう)と呼ばれていました
弥山本堂。江戸時代は求聞持堂(ぐもんじどう)と呼ばれていました
 この梵鐘に刻まれている「治承元年丁酉3月」という日にちですが、実はこの年の8月4日に治承という年号に改元されているため、治承元年3月は歴史的には存在しません。ちなみに8月までは、安元3年となります。
 このことから、この鐘は「その時に奉納されたものではない」、または「この日にちが、後から刻まれた時に間違えた」ということになります。
 

謎2 宗盛の肩書き

 寄進者は、右大臣平宗盛となっています。ここで2つ目の謎にぶち当たります。平宗盛は、右大臣になったことがありません。右大臣も左大臣も置かれていない時は内大臣が置かれますが、後に宗盛は、その内大臣になったことがあります。
 宗盛が右近衛大将になったのは、この年の1月のこと。そして、7月にはこの職を辞任しています。従って、右大臣ではなく右大将なら話は分かります。ただし、右大将の間違いだったとしても、その役職の間は治承の年号ではありません。
 また、宗盛自身が後にこの刻字をさせたとしても、過去の役職を刻字することは考えられません。ましてや、自分が就いていない役職を刻ませることなどありえません。従って、宗盛自身が刻ませたものではないことが分かります。
 

謎3 棚守房顕覚書

 さらに、複雑さを加えるのが、安土桃山時代に書かれた「棚守房顕覚書」です。この覚書の記述には、宗盛の梵鐘奉納の日にちを治承2年としています。ところが、梵鐘の刻字には間違いなく治承元年となっています。
 

混乱の1177年

 さて、どう考えればよいのでしょうか。実はこの年(1177年)の記述は、他の書物でもいろいろな混乱が見られます。
 平家の転覆を狙った鹿ケ谷の陰謀が起こった年でもあります。この陰謀のことを記述した「平家物語」でも、巻第2「座主流」に、「治承元年5月15日」と記述しており、その後、鹿ケ谷の陰謀発覚の場面は、「同5月29日…」と書き出しています。これらも実際には歴史的に存在しないのです。鹿ケ谷の混乱の中、さらにこの年、都を襲う大竜巻や畿内を直撃する大地震も起こりました。そうした混乱が影響したことは間違いありません。
 

寄進先は水精寺

 現在、弥山の諸寺を管理しているのは、大聖院です。大聖院は宮島最古の古刹(こさつ)ですが、平清盛の時代は島内になく、対岸にあって水精寺と呼ばれていたようです。この梵鐘にも、寄進先として、水精寺と刻まれています。その後、水精寺が現在の地に移って、多喜山大聖院水精寺となって、弥山の諸寺を管理下に置いたのち、弥山に移されたに違いありません。そして、おそらく鐘つき堂に納められたものと推測できます。
 昭和50(1975)年に刊行された「解説付き・棚守房顕覚書」には、写真付きでこの鐘が紹介されています。鐘は、現在は弥山本堂に置かれているのに、この本では、鐘つき堂につるされた姿で紹介されています。
 では、その1177年に水精寺に梵鐘が寄進されたことは間違いないのでしょうか。大聖院については、安元3(1177)年の「伊都岐島水精寺勤行日記注進状案」、および同年の「太政官牒(ちょう)案」に、「水精寺」と記載されているのが、初めての文献への登場です。
 その「伊都岐島水精寺勤行日記注進状案」には、安元3年6月5日に、水精寺へ御祈祷料として宗盛が管理していた荘園を寄進したことが記されています。おそらく、その時併せて、梵鐘も寄進したことが考えられます。
 

謎解き 河浜説

 以上のことから考えるとこの梵鐘は、安元3(1177)年の6月5日前後に、平宗盛の命によって、宮島の対岸にあった水精寺(現・大聖院)に納められ、後に大聖院の島内移転に伴って、最終的に、その管理下にある弥山本堂近くの鐘つき堂に設置されました。
 銘は、宗盛の死後に刻字されたもので、この年の混乱もあって、年代がはっきりと特定できず、安元3年6月と刻むべきところを治承元年3月と刻んでしまったのです。また、同様に右大将と刻むべきところを、右大臣と刻んでしまいました。
 これが私の謎解きの結果です。今はつるされることなく置かれている梵鐘ですが、その音はまさに平安の響きと言えます。ぜひ聞いてみたいものですね。
(学習共同体河浜塾 河浜一也)
 
 
 
 
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