ふるさと歴史散歩 平清盛ゆかりの地 【連載03】
岩に残る清盛の足跡 ご丁寧に杖の跡まで・・・ 〜呉市警固屋・高烏台〜
郷土史家 村岡幸雄
日招き岩
前回紹介した日招像は、清盛が海峡を見渡せる岩の上に立ち、金扇をかざして西に沈む太陽を招き返したという伝説がモチーフ。清盛が立ったという岩が、日招き岩として今に残ります。岩の上には、清盛の足跡と、杖(つえ)を突いたというくぼみがあり、伝説と分かっていても想像をかき立てます。そばに案内板があるので、迷うことはないでしょう。
日招き岩からさらに下ると、高烏台(たかがらすだい)公園に着きます。ここからは、2013年4月に完成する第二音戸大橋と、従来の音戸大橋とが一望でき、海とは思えない狭さに驚きです。
【写真説明】今の日招き岩は、木立の中にひっそりとあって、音戸の瀬戸は全く見えません。股を広げ、足跡らしきくぼみに足を置くと、清盛になった気分です
吉川英治文学碑
音戸大橋のたもとに広がる“音戸の瀬戸公園”の一角に、吉川英治文学碑があります。文豪の吉川英治は、1950年12月25日に「新・平家物語」執筆のためにこの地を取材。対岸の清盛塚に向かって「君よ今昔之感如何」と問いかけました。その自筆を富士型の自然石に刻んで句碑とし、平清盛に見立てた円形の石と対話をするように配置されています。これを記念し、毎年5月3日にお茶会や歌会が行われています。
【写真説明】1963年5月に完成した吉川英治文学碑は、説明板がなければ見過ごしてしまいそう。富士型の石は二河峡の自然石で造られています。
警固屋と舞々尻
この辺りの地名を警固屋(けごや)といいます。音戸の瀬戸の開削工事を警固する武士の番小屋があったからとか、工事人夫の炊き出し小屋があったからとか諸説があります。平安後期から鎌倉時代にかけ、交通の要所を海賊から守るために置かれた見張り小屋を指すもので、瀬戸内海にはあちこちでケゴヤの地名が残ります。その中でも、厳島参詣や貢納物の安全輸送のため、音戸の瀬戸は平氏にとって重要なケゴヤであったと想像できます。また、竣工祝いをするために舞台が造られたことから、舞々尻という地名も残っています。
日本一短い定期航路
橋が架かった今でも、住民の大切な足として活躍するのが、音戸の渡船です。乗船時間は約2分(大人70円)。時刻表はなく、桟橋に出ていれば対岸からすぐに迎えに来てくれます。きっと清盛もこの海峡を何度も往復したことでしょう。次回は、対岸の音戸町です。
【写真説明】音戸渡船は、300年間続いています
提供:広島リビング新聞社
(「リビングひろしま」2011年8月20日号掲載)